上田城址公園散歩

真田正幸、信之、信繁の城、上田城
昨年のNHK大河ドラマ「真田丸」で全国から大勢の観光客が来て賑わっていた上田城跡
あまりの人の多さとのことを聞いて昨年は一度も来ることができなかった。

誘致運動、そして放映・・賑やかな年月も終わってしまえばあっという間のような気がする。

静かになり、やっと本来の公園散歩ができるようになった。

上田城
上田城 posted by (C)幸村

上田城のお堀は昨日の雨で濁っていた
小学校の授業だったか、このお堀で下駄スケートで滑った、真田紐で強く縛って・・・。

確かこの辺につり橋があった記憶

上田城2
上田城2 posted by (C)幸村

公園の中では当時もラジオの音が聞こえていた
地元ラジオ局、信越放送の塔が今も残っていた
上に釣鐘のように見えていたがよく見るとスピーカーが下向きについていた。
今は隣の東屋のスピーカーからNHKラジオが流れていた
たぶん災害時でも公園の人たちに伝わる目的もあるのでしょう

そうだ その頃なぜかここに熊がいた檻があった

上田城3
上田城3 posted by (C)幸村

武道館は今はなく隣の神社の敷地の隅に小さな土蔵を発見
上田城 赤松1
上田城 赤松1 posted by (C)幸村

赤松小三郎記念館
一度行ってみたいと思っていた旧北国街道の生塚(うぶつか)からこちらに昨年移転したようだ
そこにおいでの会の方に写真等ネット掲載の許可をいただいた
開館は4月~11月上旬の土・日・祭 のみ。入館無料

2上田城 赤松
2上田城 赤松 posted by (C)幸村


数年前 あるところで四国からの旅行者に上田の人なら知っていると思い「赤松小三郎」の事を聞かれた
地元なのに恥ずかしながら全く知らなかった。
逆にその方から後でわざわざ資料を郵送していただき訪ねてみたかった記念館

      知られざる郷土の偉人
赤松小三郎
  竜馬に先んじた兵学者
       近代日本を築いた先覚者


庭に大きなパネルで赤松小三郎の物語が掲示されていた
一部を写真を撮ってきました
赤松小三郎物語です
子供のころの名は「芦田清次郎」で江戸幕府の終わりごろ上田藩士の次男として誕生
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剣術よりそろばんなど算数好きであった清次郎
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十八歳になり江戸へ出て、
有名な内田弥太郎や下曽根三郎、勝麟太郎(後の勝海舟)などの門人となって測量、天文、砲術、兵術など学びました。
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二十四歳の時に上田藩士赤松弘の養子となり、三十一歳で小三郎と改名、
勝海舟の門人の時、先生に従って長崎海軍伝習所に行き、オランダ人から軍艦の操作や航海術を学び、いくつかのオランダ語の本を翻訳して「英国歩兵練法」などの本にまとめました。
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だれでも知っている、今でも学校などで使われている
「気ヲツケ」「前へススメ」「止マレ」などの
号令はこの時、赤松が作った言葉です。

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長崎から帰って松代藩士の娘と結婚し、その縁で松代藩士の佐久間象山とも知り合い、手紙のやり取りなど親しくつき合いました。
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三十六歳の時、京都に出て塾を開きました、門人はあちこちの藩士が約八百人いたそうです。
門人の中に東郷平八郎たちもいました、英国歩兵練法や議会政治を教えた

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三十七歳の時、政治の中心にいた松平春嶽島津久光や徳川幕府に七項目の意見書を出しました

これが有名な 建白七策 で、
第一番に「二院制議会」づくりを述べています。
坂本竜馬がその一か月後に起草した「船中八策」と酷似、竜馬が影響を受けたと言う見方もある
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慶応3年 教え子の薩摩藩士に暗殺された、享年37歳
薩摩藩の軍事情報流出を恐れたか?


それから世の中が変わって
23年目に日本でも二院制議会が開かれました。





真田丸人気からやっと公園の駐車場も余裕となったので散歩にまた出かけたいと思います。

追記
3年前の大河ドラマ「真田」放映決定の頃のブログ記事

http://yukimura.at.webry.info/201406/article_3.html


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